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私的サンカ考・その後 文: もぎ ちえこ 作者にメールを送ります
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      (1)

 「私的サンカ考」を書いてから1年が経過した。もともとこの文章は、おりおりに発行している個人誌に載せたもので、それをテン・ブックスの投稿閲覧室に送った。
 個人誌の発行部数はわずかなもので、特にこの文章を載せた号は本当に少ししか作らなかったのだが、それでも反響があって、いろいろな情報が得られた。
 竹工芸会の仲間に、さいたま市役所に勤めている人がいるのだが、あるとき、サンカの話をしたら聞いていた全員がいっせいに話しだしてびっくりしたと話してくれた。彼女は「私的サンカ考」の文章を読んでいて、なにげなく話題にしただけだったが、みなの反応はすさまじいもので、それからひとしきり話が止まなかった。後日、分厚い資料を見せに来た同僚もいたという。
 それほどみなの関心が高かったのは、仕事で、ある時期サンカの人たちとかかわった経験があるからのようだった。サンカの人たちと会ってなにがしかの相談に乗った、あるいは福祉の仕事として取り組んだということだろう。
 サンカの人たちは、戸籍などといったものには、いたって無頓着だった。識字率も低かったようだ。小学校に入学しても、厳しい差別にあって通学を断念したり、生活苦から働きに出ざるを得ない場合が多かった。
 それでも、箕つくりや箕直しで生活できるうちはよかったが、農村に機械が導入されるとそうした仕事は衰退し、結局は行政に頼らざるを得なくなった。あるいは見かねた民生委員によって相談が役所に持ち込まれるということもあったのかもしれない。その結果、彼らと接触したのが市役所の職員だった。その際の体験はそれぞれの胸に印象深いものとして残ったのではないか。
 福祉の世話になって生活保護を受けるには戸籍が欠かせない。定住している必要もある。今どき無籍の者がいるなど信じられなかったことだろう。戦時中、配給制度の発足をきっかけにして、戸籍を得た者がかなりいたようだが(戸籍がなければ配給が受け取れない)それでも無籍のままの者も多かった。
 そうした現状に対処して、生活が落ち着くまで面倒をみた過程には、さまざまなやりとりがあり、感銘深い出来事があったろうと推測される。だからその名前が出たときに、みなは沸騰するように話し出した。
 体験談を聞き取りすれば、面白い記事が書けるだろうと、とっさに思ったが、プライバシーの問題もあって難しいだろう。しかし行政側の、しかも個人レベルでの接触という視点は、捨てがたいものがあるので、チャンスがあればと思っている。ほかにも人世座の思い出や、昔みかけた竹細工職人について、何通かのお手紙をいただいた。

     (2)

 サンカ問題と並行する形で、宮本常一、そして民族学の本もおりおりに読んでいた。宮本常一の本は最近、何冊か文庫になっている。
 佐野真一の「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」を読んでいて、ある箇所に声を上げそうになった。以前住んでいた西東京市の家のすぐそばに、民族学博物館という建物があったのだが、そこに一時期、宮本常一が来ていたというのだ。民族学博物館の設立は昭和十二年で、もちろん戦前の話である。
 引っ越してきたときから、この建物は何だろうといつも不思議に思っていた。四角い二階建ての建物で、大通り沿いに建っていた。
 もちろん名前からある程度の見当はつくのだが、いつもひっそりとしていて、人の出入りを、ほとんど見たことがなかった。それでも出前を取るときなど「民族学博物館の裏の・・・」というだけで通じたのだから、地元の人には、馴染みの建物だった。
 おいおいに、その建物に関する情報は入ってきた。その土地一帯の所有者であった高橋文太郎という人物が、渋沢敬三に連なる日本民俗学会に関係していて、あたりの土地を寄付し、そこに博物館を建てたということだった。今は民族学博物館を含む一部の土地しか残っていないが、当初は広大な敷地であったらしい。
 実は、2、3度建物のなかに入ったことがある。なぜ部外者が建物のなかに入れたかというと、民族学博物館の土地を、ある業者が買い取って、マンションを建設する話がもちあがったからである。基金が設立されていて、その利息で民族学博物館は運営されていたのだが、その収益が見込めなくなって、苦しくなる一方なので、土地を売り大阪に移転するということだった。ついては近隣の住民に納得してもらうような形で業者に売却したい、という民族学博物館側の意向で説明会が開かれたのである。
 声をかけあい、10名ほどが説明会に参加した。内部に足を踏み入れるのはみな初めてだった。案内された部屋には机が並べられ、民族学博物館の責任者とマンション業者が並んで待っていた。用意されていた椅子は、寄せ集めという感じの古いもので、暖房がきかずとにかく寒かった。
 説明の後、どうせなら内部を見学させてもらおうと誰かが言い出し、二階建ての建物の各部屋を見て回わることになった。天井にとどくほど高い木製の木枠の棚がどの部屋にもあって、そこに民具が雑然とした形で置かれてあった。本当はもっとあるのだが、すでに大部分を大阪の方に送ってしまったので、今はこれだけしか残っていないという説明を受けた。背負い籠や雨が降ったとき着る蓑、土器などもあったような気がするがはっきりしない。
 マンションがそこに建ってしまうと、一日のうち何時間か影に入ってしまうし電波障害も起こる。当然、反対運動が起こった。中心になってくれる人がいて署名活動もしたが、あまり賛同は得られなかった。日本の民族学にとって、そこがどんなに重要な土地であるか、市民に浸透していなかったからだ。
「旅する巨人」には「国内の民具だけでなく、朝鮮や台湾など周辺諸民族の民具も集めた日本初の民族学博物館」とある。「本来国家が設立しなければならないものを、日本ではじめて、小規模ながらまったく個人の力でつくりあげた」もので、渋沢敬三は「百年たてば、ここは近代日本を語る正倉院になる」といいつづけたそうだが、すぐそばの住人でさえ、十分に理解していなかったのだから仕方がなかった。
 マンションの建設業者からいくばくかの補償金(すぐ裏の家で十数万、少し離れると数万円だった)がでて、建物はとりこわされ、今は近くの道路に碑だけ建っている。10年以上前の出来事だ。日本の民族学にとって重要な建物の近くに長く住んでいたのに、それに気づいたのは引っ越しをした後というのは、笑えない話である。

     (3)

 民族学関係の書籍とともに、サンカ関係の本も読み続けていて、特にそのなかでも筒井功という人の著作に興味深いことがたくさん書いてあった。

・筒井功
共同通信社記者。
非定住民の生態・民族や、白山信仰の伝播過程の取材を続けている。
「漂白の民サンカを追って」現代書館
「新・忘れられた日本人」河出書房新社
「サンカ社会の深層をさぐる」現代書館

 彼は実際にサンカの人たちに会って取材をしている。その話がまず面白かった。3冊の著作には重複している部分もあるのだが、サンカ問題に興味をもたれた方には是非おすすめしたい本である。
 たとえば彼らが作った「箕」についての考察など非常に参考になった。「箕」には藤箕系の箕、竹箕、皮箕と三種類あったと説明し、それぞれの特徴を述べているが、箕は「米一俵(六十キロほど)と交換」が相場になっていて「藤箕一枚の現在の小売り値は一万円前後、卸値で六千円ほどが普通だった」という。
「白米など年に何度も口にできない農民がいくらでもいた時代」に、それだけの商品価値があったというのはすごいことだ。当然、農民も購入には慎重になるわけで、品質にはことのほかやかましかったという。裏返せば、それに叶う商品を作っていたということで、サンカの人たちが職能民といわれる所以であろう。
 それならば定住しても生活が成り立ちそうだが「箕は長持ちする。五十年も六十年も前に買った箕をいまなお使っている農民に筆者(筒井功)はしばしば会った。だから一つの地域では、そうそうは売れない。修繕も年に何度もすることではない。それゆえ顧客を求めて広い範囲を回ることになる」ということだった。高い技術を持ちながらも、移動して歩かざるをえない理由がこれで納得できる。
 箕とは、ひとことでいえば、ちり取りの形をした農具のことで、穀物の実と殻(外皮)を振り分けるのに使う。比重の差を利用して、箕をあおるように振って手前に実を、前方に殻とごみを集めていくのである。コンバインなどの機械を導入するまで、農家にとっては必要不可欠な道具だった。
 高価であることもあって、この箕をなんとか自製できないものかと考えた者も当然多かったろうと筒井功は推察する。だが農民が箕を作ることはなかったと彼は言う。それには3つの理由があった。
①技術的な理由
 時間をかけて技術を習得する必要があって、素人が作れるようなものではなかった。実際、明治末から昭和初期にかけて各地の自治体で、住民の収入増加をはかるため、副業奨励として竹細工の技術講習会をひらいたりすることがよくあったが(「私的サンカ考」で記述した群馬県の例など)、箕を対象にすることはなかったという。
②経済的理由
 たとえ技術を習得し、年に何枚か自製したとしても、その時間と手間を考えたら買ったほうが効率的だった。サンカの人たちも、材料を採集する者、編みをする者、仕上げをする者と分業していたらしい。また箕の修繕や注文が多いのは農繁期である。本業がおろそかになってしまうため、副業として向かなかった。
③社会的理由
 これが一番の理由だと思われるが、箕にかかわることは、ただちに蔑視の対象になることを意味していた。箕は穀物の精製に用いる道具で、けがれとは無縁である。なぜ差別と結びつくのか筒井氏もわからないと記述しているが、差別は厳然として存在していた。農民が箕作り、箕直しをすることは差別される側にまわるということにほかならない。ちなみに、竹細工をする者も、箕だけは作らなかったし、箕を作る者も同様だったという。
 ほかにも西日本と東日本では、流通していた箕が違っていたことなど、視野を広げて紹介している。
 だがそうした実情を知る人は、農村にも、わずかしかいないのが現状らしい。末裔の人たちも亡くなっているようだ。何十冊かの書物だけ残して、「サンカ」は消えようとしている。

*「私的サンカ考」の内容の一部にミスがあったことをお詫びします。(5)で永山則夫の事件について言及しましたが、狭山裁判の被告と取り違えていました。永山則夫の事件も差別問題として、この時期大きくあつかわれていたので混同してしまいました。もとの文章は訂正しましたが、テン・ブックスのほうは訂正の仕方がわからなかったので、「私的サンカ考」を読んだ方が、「その後」にも、目を留めてくれるのを願うばかりです。
(訂正いたしました。--閲覧室管理者)

10/02/2012


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