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築城(連載 第41回)最終回 文: 龍門 歩 作者にメールを送ります
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 臾茂もまた、生の内容である、(吉景の表現を借りれば)個の存在の仕方が、〈家〉よりも大切であることを認めていた。〈家〉を優先させるのは大名の地位という格式や、社会における位置を重んじているからではない。生の形式とは、極論するならば食い扶持であり、この観点から〈家〉の崩壊を極度に恐れているのである。身一つならばまだいい。家臣すべてをも、その形式を剥奪される結果に追い込むことになりかねない。否、それでも、主従関係の容認があるかぎり、経済社会があるかぎり、〈家〉といいう単位組織の解体であると片づけられもしよう。しかし、問題となるのは生命である。直接には子供である。その子もまた、大地を包含する宇宙から抽出されてくるのであり、大地に根を張る命ではないか。その子らも歴史の尊厳を背負いつつ、親の本能的な愛へ委ねられる以上に、重い使命を帯びて立ち現われるのだ。親子の愛情は、単に個人的なものであってはならぬ。それは、歴史への畏敬と接しているはずである。とすれば、親子の関係にあって、子が子であるかぎり、親の子に対する最低限の責任は、経済生活の保証なのだ。生の形式の定着なのだ。これはむろん、全人類社会の課題となる。
 そして、臾茂は、愛し合う男女の間には、そうした歴史を背景に控える生命が必然的に内在している、と考えていた。その生命に肉体という具体性を与えないことは、むしろ歴史への冒瀆である。この意味で、臾茂は吉景を許せなかった。冴乃という妻を主体的に迎えておきながら、冴乃をも歴史を冒瀆したのだ。徹底するなら、異性を愛さなければいい。子孫愛なくして生きることは、善くも悪しくも自己の溶融である。
 とはいえ、臾茂もまた、自分自身を引き裂くことによって、愛を裏切っていた。たしかに、歴史を背負った命の責務は愛し合うことなのだから。すなわち、愛の結果具体化された生命を創造しなければならぬはずであるから。そしてさらに、個の全への調和、という生き方も、ただ受動的な立場にあると考えていたにも関わらず、実は個の全への能動性を含むものであることに気付かねばならなかった。冴乃をも巻き添えにした、吉景をも左右した。と同時に、臾茂は、自分が既に社会的に死んでいることをも、明瞭に自覚するのだった。
 そういえば、臾茂はその日、沙忠の処刑と角桐家お家お取り潰しの報を受け取っていたのだ。以前、訪れて来た沙忠に、お前は社会的な死にある、と言ったことを臾茂は思い出した。けっきょく、沙忠はその現実化まで生きつづけた。そして、角桐家の崩壊を招いた。予見したとおりであった。だが臾茂は、沙忠の死と角桐家断絶に関して、なにかしら後ろめたいものを感じないわけにはいかなかった。というのも、沙忠に自害を勧めながら、現在むしろ臾茂がその立場に立っているにもかかわらず生き永らえていることもその理由であったが、それ以上に、卯月家の存続を願うあまり、角桐家お取り潰しを祈っていた点なのである。むろん、この祈りは現実とは何の関係もない。が、無関係でありうるのは、角桐家が健在するかぎりにおいてである。いま、崩壊が事実となって臾茂の前に土砂崩れのように展開したとき、呪咀にも似た自分の祈りが何らかの支配力を持っていたように思われる。そして臾茂は、逆に角桐家の呪いが卯月家に振り掛かってくることに怯えを感じなければならない。
 しかし、臾茂は必死に堪えようとしていた。確かめねばならぬ。八月までか九月までか、人の倫を外し、欺瞞を犯し、社会的に死んだ責任として、確認するために生きねばならぬ。生きたい……しかし、生きる気力が続くだろうか……
 臾茂は大儀そうに起き上がった。押入れの襖を開き、その奥から幾重にも包装された文箱を取り出した。緊張と寒さで、彼の全身は傍目にもわかるほど大きく震えている。定まらぬ手先で焦りながら文箱の紐を解いた。中には、白い書状が入れてあった。築城に関する申告書である。臾茂は、視線を背けるようにして、それが兄の筆跡であることを確かめると、細かく破いて火鉢へ投げ人れた。
 冷たい火鉢の縁に手を掛けて、臾茂は、小さな炎がゆらめきつつ消え去るまでじっと見詰めていた。炭の灰に混じって、申告書は黒く縮れた。青い微かな煙が最後に立ち昇り、そのにおいを嗅いだ臾茂は、ぐったりとのしかかる疲労を覚えた。紙の燃えかすを火箸で突つきながら、臾茂は魂が抜けたように力なく眼を開いていた。
「冴乃!」
 激しい声に、臾茂ははっと周りを見回した。誰の声だったのかはっきりしなかった。冴乃が振り向いた。髪は乱れ、着物は肌を露わにはだけて、荒凉とした雪の原野に裸足である。彼女は蒼白な顔をゆがめ、後ろ向きになって上体をかがめた。嘔吐しているようだった。幾度も幾度も、視線を虚空へ投げては、苦しげに悶える。臾茂は事態を見極めるために、彼女の方へ近付こうと焦った。だが、脚が動かない。見れば、彼も裸足であった。焼けつくように冷たい氷の上で、足裏の皮膚がべったりと付着している。冴乃はなおも立て続けに嘔吐する。喘ぎ苦しむ口のまわりに、引き攣る指の間に濁った黄緑の嘔吐物がへばりつく。死んではならない、死んではならない。産んでくれ、健やかな男の子を。歴史のために、そして卯月家のために――長い呻吟の世界であった。
 やがて、臾茂は額にひび割れそうな痛みを覚えはじめた。ぐっと歯を食いしばり、彼は両手で頭をかかえた。が、悶絶するほどの激痛に、眼前の情景が溶け出した。捉えようとしても、ただゆらゆらと波打つばかりである。冴乃の姿が、氷の荒れ野が、形も色彩も失って、無音の晦冥へと遠ざかってゆく。しかし、その幻像は間もなく、夜明けの海にのみ込まれてしまった。細波が煌いて、既に太陽は水平線から浮かび上がっている。濃紺に深い暗さを沈めて、早春の海はようやく明るみを帯びるようだ。池に咲き乱れる白蓮のような蒸気が、城下の朝に漂い流れる。加納城の鯱も、金色に輝きながら、空に泳いでいる。

 永文三年の四月も終わろうとしていた。吉景は十日に一度は届く臾茂からの連絡を待ちながら、大天守の六階にひとり佇んで矢狭間から、霞立つ清岳や、春の日差しがいっぱいに降り注ぐ城下を眺めていた。若葉が萌え立ち、水もぬるんで、家臣や領民もうきうきしている。
 そんな華やぐ陽気とは対照的に、吉景の胸は、冴乃がいない寂しさに空洞が穿たれたようだった。臾茂の書状には必ず、冴乃は元気であることが記されていたが、冴乃自身からはまったく便りがない。そのことに疑念を抱かないわけではなかったが、心は城築の細部を詰めることに奪われていて、深く考えもせず、穿鑿もしなかった。
 ふと、下の方で湧き起こったざわめきに沈潜を破られた。足音があわただしく階段を昇ってくる。
 臾茂からの知らせか? 裁決が下されたのか?
 吉景は、われ知らず身構えた。
「殿、江戸からの使者でございます」
 息を切らした家臣が吉景に告げた。汗にまみれた使者が前へ進み出て、「臾茂様が自害なさいました」と、喘ぎながら報告し、臾茂の遺書を主君に手渡した。
 吉景はものも言わずに書状をひったくり、食い入るような眼差しで文字を読み取った。
 冴乃の懐妊に対する祝辞が短く述べられている。そして、願わくは健やかな男児がさずからんことを、と結んであった。
 吉景は愕然と清岳を見遣った。一瞬、雄々しく浮び上がった幻の城は、土塵を巻きあげながら轟音とともにゆっくりと崩れ落ちた。

  

06/20/2016


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