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ギョーダンノギシ(4) 文: 佐山 ゆうき 作者にメールを送ります
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      (五)
           (第四回/全九回)

 洋介のおでこに、そっと手がおかれました。
 学校から帰ってきたときから洋介はどこか変でした。
 戸をばたんと閉めない洋介、ランドセルを放り投げない洋介、ただいま、なんて言う洋介・・・。ぜんぶがいつもの洋介ではありません。ふつうだったら、すぐに冷蔵庫をあけて、おやつをさがしにかかるはずなのに、今日はまっすぐ机のまえに座ったようでした。
 お母さんはとなりの部屋で本を読みながら、洋介が引き出しをあける音を聞きました。なんさつも本を重ねる音がして、引き出しが閉められたあとは、まるで家からその部屋がなくなったみたいに、なにも聞こえてきませんでした。
「だめじゃない、洋介」
 夕ごはんのとき、お母さんは、わざとこわい顔をつくって言いました。
「勉強なんかしたら、人間、パーになっちゃうよ」
 洋介は口びるのはしをちょっと動かしただけで、お母さんの作戦にはのってきません。
「やあね、恋にめざめちゃったの?」
 恋ってなあに、そうたずねてくるだろうと計算して、お母さんは洋介の顔があがるのを待ちましたが、やはり、どんな言葉も出てきません。
 だからお母さんは、どのお母さんも自分の子どもが元気がないときそうするように、洋介のおでこに手をあてたというわけです。
 テレビでは、アナウンサーが、どこかでだれかがなにかをしたというニュースをしゃべっています。
 どうしたの、とたずねても、洋介はなにも言わないだろう、と思ったお母さんは、その下に、かしら・・・とつけて、自分に問いかけました。
 熱もない、カゼでもない、だとしたら原因はなに? 朝はいちおう元気だったのに。学校でなにかあったの? こういちくん? だとしても、いままでのあんただったら、なにか言ってきたじゃない。
 洋介は、目の前のおかずに箸をのばしては口に運び、もくもくと食べつづけています。だけどお母さんには、洋介の気持ちがここにないことがわかっていました。おいしそうに口を動かしていても、いまその口がほおばっているものは大嫌いなカボチャなのです。いいの? それカボチャよ、って教えてあげたくなるくらい、洋介はそのことに気づいていません。そんな洋介ははじめてでした。
 くさいとか、うるさいとか、洋介はいつもお母さんの体でたしかめられるところにいました。それが急に消えてしまったような・・・、レーダーにも映らないところに行ってしまったような・・・。
 テレビがチャイムを鳴らし、臨時ニュースの流れることを知らせました。今夜六時二十分・・・大爆発をおこし・・・溶岩が・・・村のほうへ・・・。
「応答せよ、応答せよ」
 お母さんは洋介を見て心のなかでつぶやきました。

「どうしたんだい」
 不意にお母さんの耳に、ある声がよみがえりました。
 二十五年も前につぶやかれたその声はすっかりかすれて、ほとんど聞きとれないくらいになっています。それはお母さんのお母さんの声でした。
 おでこに手が置かれています。お母さんのおでこに手をあてているのは、お母さんのお母さんでした。
「おなかでも痛いのかい」
 お母さんのお母さんはいつもいそがしそうにしていて、お母さんが元気がないときでも、ちょっとおでこにさわって熱がないとわかると、さっさとどこかへ行ってしまうような人でした。子どもが元気がないのは熱があるからで、熱がなければ元気なはずだ。子どもは悩むことなんかないし、悩んだりすべきじゃない、まるでそう信じているかのようでした。
 だけどあのときだけはちがいました。お母さんのおでこにのせられた手は、はりついてしまったみたいに動かず、おたがいにどうしたらいいかわからない時間が、いつまでもつづいたのです。
 お母さんあの日のことを思い出そうかどうか迷いました。本当のことはだれにも言わないまま、お母さんは年をとってくることができました。でも、そのときのお母さんは、だんだん暗くなる思い出の部屋で、重たい秘密をかかえたまま、今でもふるえています。お母さんはためらいながら、ふるえている小さいお母さんに呼びかけました。
「応答せよ、応答せよ」

 小さいお母さんは、小さい赤い箸でおみそ汁をかきまわしながら、どこか遠いところを見ています。
「どうしたんだってば」
 お母さんのお母さんの声は聞こえていました。でも、言うわけにはいかないわ。小さいお母さんは、たしかにそう思ったのでした。
 なぜ言えないかといえば、お母さんのことが心配だからです。自分のしたことがどんなにひどいことなのか、小さいお母さんにはよくわかっていました。そのために今、めちゃくちゃな気分になっていて・・・。でも、それは自分の気分だから・・・、わかるからいいのです。
 でもお母さんに打ち明けたら、・・・。お母さんの気持ちが、どんなふうにめちゃくちゃになるかわかりません。怒ることも忘れて、わっと泣き出して、お母さんはこわれてしまうかもしれない。
 小さいお母さんは気づいてはいませんでしたが、それは、今までにない不思議な考え方でした。
 きっかけは一冊の本でした。小型のそれでいてずっしりと重い草花図鑑。学校の帰りにときどき立ち寄る本屋の、ちょうどの目の高さの棚にそれはありました。
 小さいお母さんは、なにげなくその図鑑を手にとって、ぱらぱらとめくりました。波に映る虹のように、たくさんの色が目の前をかすめていきます。その中の草花のページ、コスモス。小さいお母さんはそこでページがめくれるのを止めました。
 大好きなその花は、花びらのひとつひとつまで、針の先に絵の具をつけて描いたように、こまかく仕上げてありました。めしべとおしべの一本一本まで、本物より本物らしく描いてあります。これを描いた絵描きさんは、本当にコスモスが好きだったんだ、小さいお母さんは、そんなふうに思いました。
 小さいお母さんの目には、うす紫色のコスモスしか映っていません。まわりにいる人たちはみんな、白い絵の具で消されてしまったみたいに、見えなくなりました。そのあと、その図鑑をどうやって手提げ袋のなかに入れたのか・・・お母さんは思い出すことができませんでした。
 小さいお母さんは、赤い小さな箸でまだおみそ汁をかきまわしています。
 あの本屋のことを、何度もくり返し考えていると、本屋の様子は、さっきとはまるでちがって見えてきます・・・。消えていたはずの人たちが、ずらっとまわりを取り囲み、店の前を通りかかった人たちも、足を止めて、ショーウインド越しに店の中をのぞきこんでいます。どの目もじっと、小さいお母さんの手を見つめていて・・・。
 図鑑をもった右手がゆっくりと下におりて、手提げ袋のなかに本が消えたとき、まわりの人たちの口がいっせいに開いたような気がします。オーというざわめきが、店のなかにこだまし、おじょうちゃん! と叫ぶ、本屋の主人の声も聞こえたような・・・。
 大勢の人たちが、黒いかたまりとなって、今ごろはもう、家のすぐそばまで迫ってきているかもしれない。小さいお母さんは、ザワザワと心が波立つのを感じました。先頭にはおまわりさんがいる。玄関の戸がたたかれ、家中が揺れる。いまにもそんな瞬間がくるような気がします。
 小さなお母さんは自分がふるえていることに気づきました。
 なんでなのか・・・わかりません。無理に言葉をさがすとすれば、こわい、というのが、一番近いでしょうか・・・。本を泥棒したのがこわい? おまわりさんにつかまるのがこわい? 
 たしかにそれもあります。だけど本当は、そういうこわさを、自分ひとりでかかえていなければならないことがこわい。そういうことのような気がします。小さいお母さんは、ひとりごとのように「寒い」とつぶやきました。

 あのとき私は、生まれてはじめて、人間はひとりぼっちになることもある、と知った。
「寒くない?」
「・・・」
「寒いんじゃないの?」
「・・・」
(寒イワケ、ナイジャナイカ。モウ六月ダヨ。デモ、ナンデ、ソンナコト、キクノ?)
「少し」と洋介は答えました。
(寒いわけないじゃないの。もう六月よ。だけど洋介も、寒いという気分がわかるかもしれないわね。なにがあったのか、なぜ元気がないのか、話す気にならない?)
 お母さんはテレビを消して、お茶の入った茶碗を口に運びました。
「ぼくとお母さんは・・・」
 お母さんの手のなかの茶碗がかたむいたまま止まりました。
「・・・タニンだよね」
 部屋のなかのすべてのものが、聞き耳をたてるように、静まりかえりました。
「タニン?」
 時計の針だけが、大きな音をたてて、動き続けています。
「そうよ。だけどそれは、自分とは別の人という意味でね」
 何でそんなことを言い出したのか。
 お母さんは洋介の次の言葉を待ちましたが、洋介はそれきり黙ってしまいました。
「タニン・・・」
 しばらくしてお母さんは「そういうことよね」と、声にならないつぶやきをもらしました。土のなかで眠っていたセミの幼虫がはい出してきたのです。
 光につつまれ目がくらみます。それでも幼虫は、木の幹をつたって、夏の空へ登っていきます。体をそりかえらせ、からを破りました。飛び立つための羽を、風のなかに、ひろげました。寒いのは・・・そのためです。
 自分と洋介が「タニン」になったというつらい出来事を、お母さんはそんなふうに考えてみました。
 お母さんのお母さんも、あのとき、同じような気持ちだったのかもしれない。お母さんは、小さなお母さんの顔をなぜるような気持ちになって、洋介の頭をそっとなぜました。

05/02/2016


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