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築城(連載 第39回) 文: 龍門 歩 作者にメールを送ります
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 演繹される限り、人間は全から自由であることはできないし、演繹されなければ帰納も不可能だ。それゆえ、個はすべて全との反応である。しかも、全との反応を止めることは、無慚な個の破滅以外の何ものをも生起しない。また、個の生命が有限であるのに対して、全は、要素たる人間という種が絶滅するまで非-有限あるいであり、時代精神を形成しつづける。とすれば、畢竟私たちには、全の反応感度や時代精神が脆弱であることを細々と望む以外に術はないのか……。
 どれほどの時間が経過したのか、吉景がようやく意識したその場の情景は、神主の姿が消えていた以外、おそらく殆ど元のままであった。〈記憶の墓場〉に降り注いでいる雪を溶かしながら激しく燃える炎、それを取り囲む武士、酷く心配げな表情の浅居、そして取り押さえられている巫女──。
 その巫女のすがすがしい表情が、吉景の網膜でぐんぐん大きくなってきた。吉景は苛立ちと怒りに震えた。
 個は全との反応から永遠に解放されないのだとすれば、個が求める主体も、存在の仕方の自由もない。ならば、何のための生なのか? 不自由の中に閉じ込められている人間など、生まれなければいいのだ。だから、未生の子はまさに、この世に出さないほうがよかったのだ。その子を孕み、この世に産み出そうとした江奈を地獄に落としてよかったのだ。私は〈産む〉という大罪を犯さなかったし、この世に生をもたらす男女が行なう共同作業の罪に比べれば、それを阻止した功のほうが幾層倍も大きい。そうだ、私はこの世に善を為した。もともと太陽は沈まなかったのだ。だから、改めて求める必要もない。なにが歴史だ、なにが〈お家〉だ。ならば、たとい時代精神に組み込まれていようとも、築城という反逆の形で自らの生の場において、呪いと憎しみを浴びせかけてやろう。
 上滑りな破壊欲の衝動が、無性に彼を突つき始めていた。血走った眼で巫女を凝視していると、彼女の澄み切った瞳、乱れのない立ち姿に、言い知れぬ羨望の気持ちが疼くのをどうすることもできなかった。彼の息遣いはしだいに荒くなっていった。顔の筋肉を細かく痙攣させて、異常なまでに集中している。
 巫女の腕をつかんでいた武士の手を無言で払いのけ、吉景は自分の両手で彼女の小さな肩をつかみ、炎の方へ一歩、踏み出した。このとき、浅居が老齢とは思えぬほど素早く飛び出して、「殿、それだけはおやめください」と吉景の足許にひれ伏して行く手をはばんだ、「どうか、ご自分のお手を穢すことはおやめください」
 吉景が進路を変えるたびに、浅居も場所を変えた。
 吉景は警護の者に目配せした。屈強な侍が「浅居さま、どうぞお立ち上がりください」と言いながら、力ずくで浅居を地面から引き剥がした。脂濃く充血した主君の肉塊を見て浅居は立ちすくみ、目を伏せた。
 熱風が吉景と巫女の周りに渦巻いている。じりじりと近づくにつれ、皮膚が焦げるほどに熱くなる。これでもか、これでもか、と吉景は噴き出す火柱に向かって巫女を押す。顔を背けたり、目をつぶったりしながら、真赤になって吉景は炎の傍へにじり寄る。それでも巫女は抵抗をしなかった。というより、穏やかな表情でしっかりと大地を踏みしめ、厳かに火柱へと向かっているかのようだ。
 吉景は、はっと息を殺した直後、力も萎えるような無力感に捉われて、巫女から跳び退った。そして、喘ぐように浅居を振り返った。生まれて初めて疑念を抱いたような絶望的な不安の眼差である。
「浅居、お前は私を信じているか。私を、ただ、信じている、と言い切れるか」
 そのとき、巫女が燃えさかる焔の中に身を投じた。火柱が大きく乱れ、火の粉が飛び散った。雪雲が途切れ、小さな青空から太陽が日差しを地上へ注いだ。すぐに分厚い雪雲が襲い、さらに激しく雪が降りはじめた。
 一同は何をする術もなく、ただ火焔をながめていた。
 吉景はやがて、鎮守神に激しく嫉妬していることに気がついた。巫女の心の在りように憧憬を抱いた。喉が、否、体の芯が渇いた。
「浅居、お前は私を信じているか。私を、ただ、信じている、と言い切れるか」
 抉るほど老臣を見詰めながら、吉景は震える声で再び尋ねた。浅居は、唐突な君主の問に答えることもできず、僅かずつ彼から退くばかりである。その煮え切らない態度に歯ぎしりして、
「では、貴様らはどうだ、この私を信じているか」
 力いっぱい自分の胸を打ち、吉景は他の家来たちに大声で尋ねた。
「黙っていてはわからぬ。なんとか言え、答えてみろ」
 必死の面持ちで、彼は家来のひとりひとりの顔を覗き込んだ。皆、慌てて俯くのみである。
 吉景はしだいに、毒々しい笑みをこしらえはじめた。
「そうだろう、もちろんそうだろう。家臣を愛してもいない、自分のことだけを考える私のことなど、信じようがない」
 そう言いながら吉景は、まるで酒に酔ったかのように虚ろな眼差しになり、足許もおぼつかない状態に陥った。
「しかし」と彼は怒鳴った、「なぜだ、なぜだ、なぜだ。なぜ、皆はそうやって存在していられるのだ? 何の疑問もないのか? 人間であることに何の不平不満もないのか? あっても、黙っていられるのか? 何を信頼し、何を拠り所にしているのだ?」
 吉景はいまや、額に脂汗を垂らしながらわめき立てた。そして、夢中で火の周りの家臣たちの間を幾周も縫い歩きして、同じ問いを繰り返した。
 大太鼓の連打のような熱風と火焔の音が凄まじく、時折り太い樹木が燃え落ちて、無数の火の粉が破壊的な勢いで舞い上がる。黒煙は暗い雲の彼方へ逆巻き、雪は乱れた軌跡を描き、視界を遮りながら降りしきる。
 不意に立ち止まった吉景は、こんどは大きく笑いはじめた。腹をよじり、手を振り脚を蹴上げて、息も詰まりそうな激しさである。
「そうか、そうか。なるほど、それはそうだ。私だって吉景の家臣なんてご免こうむる。私だって、疑問も不平不満も腹の中に納めておきたい。そうだとも、そうだとも」と喚き続けた。
 しかし、それも長くはなかった。がっくりと上体を折り曲げたかと思うと、そのまま頽れて雪の積もった地面に這いつくばってしまった。そして、微かな嗚咽が漏れ出てきた。それはやがて、喉も張り裂けそうな泣き声へと変わった。雪をかぶり、泥を掻きむしり、大地を叩き、吉景は赤子のごとく泣きつづけた。
 家臣たちは、そんな主君の姿をただ茫然と眺め遣るばかりである。火焔に赫々と照らされる幾体もの塑像が降雪のもと、ひっそりと佇んでいるかのようだった。

03/06/2016


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