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築城(連載 第38回) 文: 龍門 歩 作者にメールを送ります
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〈個〉は相対的であるからこそ、社会構造や他者などと固着することはなく、僅かに身動き可能な〈不自由〉が生じる。社会構造も時代精神も、人間の個的および集団的営為とともに変容していくものだ。個が、連綿と積層されている時代精神に包含されているだけなら、また、時代精神も何ものにも作用を受けず凝固しているだけなら、時代精神も個も密閉され、新鮮な空気も水も絶たれた生き物のように死を迎えるだけだろう。もともと〈個〉は、外界から厳密に隔絶した純然たる主体ではない。〈全〉は無限へと開かれた系であり、〈個〉は、〈全〉と〈個の集合〉との間に系を成しているがゆえに画然とした主体も境界もなく、両者の間で絶え間なく化学反応していることを顕している。
 この化学反応の触媒が、人間にはその作用が及ばない、あるいは人間と反応しない〈自由〉であり、人間を絶対性から解放する唯一の契機である。この機序によって〈不自由〉がもたらされ、私たちは幻覚たる主体らしき意識によって存在の仕方を模索する動機と活動源を与えられる。
 このように、人間は不自由ながらも存在の仕方を創出・選択しつづけるがゆえに、常に現在時点の自己の実現態に対する否定性としての事象である。したがって、人間は、肯定性として何ものでもない事象と対になって存在しているはずだ。肯定性として何ものでもない事象とは、否定・肯定・欠如・完結を包含する〈無〉である。ところで否定性の生じる条件は欠如であり、欠如は完結しないことによってのみ事象する。そして、事象は時間空間を励起する。なぜなら、時間空間はそれ自体においては立ち現われることもなく、何事をも生起することもなく、ひたすら事象によって存在される全き欠如として無に広がり、事象によってはじめて、水が氷になるように姿を変えて顕現するからである。
 ところで、全は社会構造という形式によって支えられ、時代精神という内容を胚胎する。いっぽう、全の構成要員たる人間の集団や個による営為の過程で生産されたり、発生したりする無数の断片が、社会構造および時代精神と複雑に反応し合い、新たな営為を産み、新たな社会構造と新たな時代精神をかたちづくる。ここで重要なことは、全は、それ自体においては目的を有しないゆえに営為を行なわず検知不能であり、個や集団などが衝突してはじめて全として機能し、抵抗や軋轢を生じるということだ。たとえば、鏡のように凪いでいる湖(全)に、普通の形の船(個・集団)を普通の速さで走らせると、鏡面は波立って水の存在が顕わになる。そして水を切る舳先のすぐ前方にも波は発生し、後方へは水脈が広がってゆく。つまり、全は僅かに先回りして個を包み込んでしまう。
「しかし」と吉景は考えた、「鋭い舳先の船を高速で走らせると、波は前方には発生せず、後方には激しい水脈が残る。波が水を伝わる速さより船が速ければ、波は船に追いつくことはできない」
 つまり圧倒的な個や集団は、全を突き抜けることができるのだ。そして全を引っ張り、歴史が時々刻々とつくられる。しばしば起こることではないが、武士社会を築き朝廷と対峙した平清盛や、戦国時代の息の根を止め中央集権を推し進めた織田信長などは、大きなうねりとなって次々に連鎖を誘発しながら社会構造を覆し、時代精神を変えた。これは、不自由から出発した存在の仕方の創造であり、全を超出した事象と言えるのではないか。
 吉景は一瞬、視界が開けたような気がした。しかし、すぐに霧が目の前に流れてきて、その霧の気まぐれに過ぎ去った空洞の中を、さらに霧が埋めてゆく、そんな心象が尾を引いた。
 不自由という条件下で個が全を突破するのは特別なことなのだろうか? 特別な条件がなければ個は、全による規定に甘んじて生きなければならないのか? そんな疑問がわいてくる。
 全は外界と対峙しないがゆえに、(無限に反射し合う)意識を備えておらず、したがって全自体を対象化することはできない。それゆえ、全の時間軸である歴史は畢竟、受動的な合目的性なのである。これが、外界と関連し、自己を対象化する人間の個との決定的な差異の一つなのだ。したがって、人間は、全との反応において、個である限りにおける能動的な合目的性を受動的な合目的性の方向へ変質させねばならない。さらに、全は固定化すればするほど、その時代精神、社会構造への従属という個の存在の仕方を要求する。
 具体的には、いまの幕藩体制だ。人は世襲の身分制度によって社会的な位置を定められ、その位置に相応しい欠如をもたされる。欠如の内容は、世襲や身分制度だけによるのではなく、生まれや育ちなど多くの要因が作用し合いながら形成され、変容してゆく。すべての人間が、産み落とされた瞬間からそれぞれ異なる欠如を持ち、生きる過程において唯一の仕方で充填してゆくのである。この疑いなき〈唯一性〉を〈個の存在意義〉と捉えてもいいだろう。この〈唯一性〉によってわれわれは、かろうじて生きつづけようとしているのかもしれない。
 しかし、社会構造が経済的・法的に強固であればあるほど時代精神は重みを持って垂れ込め知的活動の動きが鈍くする。したがって新鮮な世界観が生まれにくい。こうした全から生まれるものは、おおむね時代の退屈な反映であり、ほぼ同一の指向性を有する。そして全は、個々の欠如が同質性を持ち、稠密な場となって爆発的な活動を起こすまで、愚かしくも全自体の潮流を持続する。しかも、全には何の主体性もないのだ。何を目的にいかなる仕方で歩んでいるかを意識することはできないのだ。ただ人間が振り返って、全が徹底的な崩壊にまで至らなかった、そして、或る指向性を持っていたと結論される視点からのみ、全は静的維持という合目的性を示してきた、と決定されるにすぎない。
 けっきょく、個の全への従属という存在の仕方と、全の受動的合目的性は、人間の認識の仕方の均質化をもたらし、したがって、この仕方が時代精神の直中へ組み込まれることから、〈唯一性〉の画一化をもたらす。それが社会構造の固定化や細分化と増幅作用を起こして、認識の仕方をいっそう蚕食する。この状況下に、人間にはただ、模式化された生き方の選択という不自由があるのみで、時代への従属的参加にしろ反従属的参加にしろ、ほとんどの人の営為は時代精神への符合である。
 もちろん、〈唯一性〉として存在すること自体、不可侵の意義であり、それのみによって人間として尊重されるべきである。なぜなら、人間は存在の仕方を追求する可能性を有する事象であって、そのためには存在することが最低条件だから。したがって、たとい大方は時代精神への符合人生だとしても、人間の存在意義を根底から覆すことはできない。というのも、符合を否定するための自死すら、生の単なる放棄にすぎないからだ。
 個と全について別の角度から見てみると、個は全という抽象から演繹された具象である。ここにおいて個は、万人が生来有する〈唯一性〉として生きはじめる。それは未だ等し並みの意義であり、それ以上のなにものでもないが、長ずるにつれ、〈唯一性〉として生を全うする者、生まれながらの異彩を放つ者、固有性を追求する者など、さまざまな在り方として事象する。それぞれの事象が全へと帰納し、全を変化させる。変化した全は個を演繹する。
 こうして、また袋小路だ。

12/02/2015


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