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築城(連載 第37回) 文: 龍門 歩 作者にメールを送ります
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 雪に満たされた空間に穴を穿ってやりたいほどであった。否、目を凝らせば徐々に見えてくる。城山が力強く隆起して、天守閣の姿が雄然と浮び上がる、あの黄金の鯱さえも光り輝く。しかし次の瞬間、その映像は濃密な灰色の晦冥の中へ溶けてしまう。吉景の眼差はまた落ち着きを失い、よろけまわる。幾度かそうした繰返しがあった。と、不意に彼は屈辱感と自分への言い知れぬ憤りとを感じた。惨めさが胸郭を吹き抜ける。きつく下唇を噛み締めて、吉景は火の方へ向きなおった。火の勢いは弱まっている。
「えい、なにをぼんやりとしているのだ。木をくべろ、ありったけの木をくべろ。逆巻く炎が雲を貫いて空の青を焼き焦がすほどに、大地が轟音を立てて干乾びるほどに燃やすのだ!」
 拳を振り上げ、額の血管に激しく血液を脈打たせながら、吉景は叫んだ。塑像のように火の周りを取り囲んでいた武士たちは、あわてて作業に取り掛かった。大きな松の木や灌木、刈り取った雑草などが次々に放り込まれると、火の粉が飛び散り、炎が荒れ狂い、煙を巻き上げて、一時衰えた火勢も間もなく、前にも増して勢いを加えた。
「怖くないか? おまえは焼けただれて苦しみ悶えながら死ぬのだぞ、怖くないか?」
 穏やかな表情で炎を見上げる巫女の肩をつかんで、吉景は刺々しく言葉を浴びせた。巫女は大人びて見えるが、実際には十六、七歳と思われた。熱気にほてった頬から項にかけての肌が美しく、純白の小袖に緋色の襠有袴姿が清らかである。
「恐ろしゅうございます」
「ならば、もっと怯えたらどうだ、殺さないでくれと、涙ながらに請うたらどうだ」
「この場で起こることはすべて、鎮守さまのお計らいでございます。鎮守さまにお仕えする私は、鎮守さまのお計らいを謹んでお受けいたします」
 吉景は、おもわず巫女から激しく手を離した。己からあまりにも懸け離れた巫女の心の在りように驚愕したのだ。
 吉景は巫女をまじまじと見た。鎮守神への平穏で絶対的な帰依、疑いを差し挟まぬ信頼、清冽な無私の行為が静かにみなぎっていることが感じられる。それは、神を信じる心と自己を信じる心が等価だから到達する心境ではないか、あるいは無償の思惟の地平ではないか。その神は高みにあるのでもなく、平面にあるのでもなく、周囲にあるのでもない。同一の場で共存してさえいないだろう。
 ならば、神を信じることのない私は、何を以て等価とすればいいのだ? 私の生の場には、私しか見当たらない。冴乃の生の場と部分的に、あるいは他の周囲の連中の生の場と僅かに重なっているとはいえ、冴乃は冴乃の、他の連中はそれぞれの、生の場にいる。とすれば、私はいったい何を根拠として考えているのだ?
 否、私は考えようと意思しているのではない。自らの意思によって生まれてきたのではないのと同様に、私の意思とは無関係に考えている。しかも、考えることをやめることすら不可能だ。極言すれば、考えさせられているのだ。ならば、自分は考えていないに等しい。しかし、考えさせられているとすれば、考えさせる主体あるいは考えさせることを考えている主体が私の外に存在していなければならない。しかし、主体として存在するわけがない。なぜなら、存在するとしたら私の外に在る客体だから。
 ところで、巫女はおそらく鎮守神について考えたのでもなく考えさせられたのでもなく、中から湧出する鎮守神への篤い思いを受け入れているのであろう。あたかも、水に浸した手ぬぐいが音もなく水を吸い上げるように。とすれば、考えも個の中から湧出してくるのではなかろうか? さらにまた、この連関において、思う主体が巫女でなくて何だろうか? 巫女と鎮守神との親和的な間柄に、吉景は強い憧憬を感じ、高い理想を見た。
 顧みれば、吉景は自らの固有の生き方に関してがむしゃらに目的や意義を問い、理由をたずね、答えに向かって考えを巡らしてきた。〈思考〉という。〈思う〉も〈考える〉も同じ範疇の知的活動だが、前者は感性に重きを置いたそれ、後者は理性に重きを置いたそれと言えるだろう。ところで、思う主体が巫女なのだから、考える主体は私である。考える主体は意思を持つ。だとすれば、意思的に考えるか否かを問わず、考えることが逆に、私の意思であることを指し示していることになる。とするなら、神を信じる心と自己を信じる心が等価である巫女の思いと同等であるためには、私の考索が自らの意思と等価であることを証明するしかない。そのためには、私の意思こそが、私という存在の(少なくとも)仕方に対して全責任を負うことを引き受けなければならない。
 もちろん、築城を通じて個を貫き通そうという私の存在の仕方は私の意思であり、その意思が責任を負うことに迷いも逡巡もない。ただ考えてみれば、私の意思自体、すでにして全すなわち社会構造の中に組み込まれているのだから、考索による世界観もまた、それぞれが属する社会構造の表象である時代精神から逃れ出ることはできない。この事実はさらに、時代への反時代的参加という私の生き方もまた、時代精神と背中合わせに一体であることを意味している。とすれば私は、もともと私であることにおいてすら全から自由でもなく、個的でもなく、創造的でもない。しかも、個性は他との比較においてのみ輪郭が明らかになり、内容が浮かび上がる。つまり、相対的な在り方にほかならない。
 このような考察は何度も反芻しているにもかかわらず、改めて自分はいったいなにを深刻ぶって藻掻いているのだ? という虚しい思いにとらわれた。ふいに脱力した吉景は、人格の外皮が一瞬にして引き剥がされ内面がむき出しとなって、羞恥とおぞましさに鳥肌が立った。思考回路がずたずたに引き裂かれ、考えがばらばらに飛び散ったまま、しばらくは呆然と空白の脳内領域を徘徊していた。
 否、否、と吉景は気力を振り絞って気を取り直した。

10/06/2015


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