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ノーちゃんの青い空 第5章「テルちゃん」 文: 佐山 ゆうき 作者にメールを送ります
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     (一)

 今日は土曜日で、給食もなく腹をすかして帰ってきたぼくに、母さんは、すぐ出かけるとだけ言った。普段は、顔を洗えとか、洋服を着がえろとか、出かけるときうるさいのに、何も言わなかった。
 いっしょに行くかどうかも訊かなかった。そんなふうに、ぼくの気持ちを頭から無視するようなことを、それまで母さんは一度もしたことがなかった。その日ぼくが黙り込むことになった一番の原因は、母さんのこういうやり方に対するいらだちだったと思う。
 いつも家にいる父さんは、弘前に出張していて、もう2ヶ月くらい家にいなかった。父さんの職業は商業画家というらしい。商店街のシャッターに色を塗ったり、動物園の檻の前に立てる絵入りの名札を描いたり、菊人形が展示される季節には、人形が立っている後ろの景色を描いたりする。
 でもそうした仕事はいつもいつもあるわけじゃなくて、何ヶ月もどこへも行かないこともあった。朝も夜も一緒に食事をとり、学校から帰ったときも父さんのいる毎日は、ぼくには醒めてほしくない夢だったけれど、父さんはその間にどんどんしおれていった。
 そんなとき仕事の連絡が入ると、父さんはいっきに元気をとりもどす。母さんも明るい顔になった。
 家で絵を描くこともあったし、電車に乗って通うこともあったけれど、仕事が決まると大体が出張になった。そして一度出て行くと今度は何ヶ月も帰ってこない。弘前の仕事はハクランカイで、長くなると母さんは言っていた。
 だから今、家にはぼくと母さんしかいない。それでぼくを一人置いていくわけにはいかないから、学校から帰ってくるのをまちかまえていたのだと思う。それにしてもずいぶんあわてているようだった。
 言われたとおり、ぼくは家の前で母さんを待った。コイチが通りかかって、なにをしているの、と聞いた。ぼくは黙って首を振った。
 玄関のガラス戸が開き、つづいて鍵を閉める音がした。ぼくをせかしたわりに、母さんは出てくるのに時間がかかった。
 ぼくは、母さんが前に来て、話しかけてくるまで絶対に動かないと決めていた。だけど母さんはぼくの前を素通りして坂道を下りていった。
 母さんは唐草模様の大きな風呂敷包みを背負っていた。あごが前に突き出て細い首が長く伸びている。喉にくい込む結び目を、さし入れた両手で必死になって引きはがそうとしているように見えた。ぼくの前を通るときにはもう汗に濡れていて、頬やうなじに髪がはりついていた。
 後ろから見ると、母さんの体は風呂敷包みにかくれて足しかみえなかった。深い海にはこんな蟹が棲んでいるかもしれないとぼくは思い、同時に、そんな想像をした自分をなぐりつけたくなった。
 ぼくは母さんの後を追った。母さんは、ぼくがついてくるか確かめようともせず、ぐんぐん歩いていく。
 たたきつけるような日差しが頭のうしろから照りつけ、土ぼこりの浮いた白い地面にぼくの影を映した。足がその影を踏んで、前に繰り出されていくのを見つめていると、宙に浮かぶような、深く落ちていくような気持ちになった。
 母さんとの距離は広がりもしなければ縮まりもしなかった。話をするきっかけは完全に失われていた。きっかけを捨てたのはぼくかもしれなかったけれど、母さんのほうにも、それをとりつくろう様子はなかった。
 商店街を抜け駅に着くと、母さんはぼくの分の切符も持って改札口を通り過ぎた。そして手すりにすがりつくようにして階段を登った。
 電車はすぐに来た。窓を開け放った車内には風の道が通っていたから、ぼくが選んだ方に座れば涼しかったのに、なぜか母さんはわざわざ日が照りつける側に行った。床にしゃがみこんで座席に風呂敷包みをおろすと、母さんはその横に腰かけてすぐに下を向いた。
 頭を垂れたその姿勢は、まわりにいる人には、居眠りをしているようにしか見えなかったかもしれない。だけどぼくには、何かに対して身構えているように思えた。
 汗を吸った襟は、風呂敷包みを背負ったとき、挟み込んだままの形でめくれあがっていた。うつむいた顔をかすめて髪がいく筋も流れ、はたはたと踊るそのすき間から、閉じた左目と白っぽい唇とすぼまったあごがのぞいていた。

     (二)

 ラジオを消すと、部屋のなかには、母さんが布を切るハサミの音しか聞こえなくなった。そのとき父さんはたしか下関に出張していたのだと思う。
 小さな天秤が出てきたり、壊れた懐中時計や千代紙の切れはしが出てきたりすることで、前から興味をもっていた小さな飾り箪笥のいちばん下の引き出しの底に、それは隠すように置かれてあった。巻かれていたはずのカバーはなくなっていて、何も書かれていない粗い紙質の表紙がむき出しになっていた。ぼくはそれを母さんのところへもっていって、何なのかとたずねた。
 母さんは受け取るとぼくを横に座らせ、おだやかな表情になってそれを1枚1枚めくってみせた。長く紙のなかに閉じ込められていた風がぼくの顔をなぜ、灰色と薄紫とそれを囲う今にも消え入りそうな線が目をよぎった。
 何枚目かのページを母さんは指で止めた。よく見るとそれは女の人と馬の絵だった。馬の首を抱く女の人も、顔を女の人の胸にこすりつける馬も、これから眠りに入ろうとする意識のようにたよりなく見えた。
 女の人は袖のない、胸のところが三角に開いた洋服を着ていて、花びらの形になったスカートの裾から蜻蛉の胴のような足が伸びていた。色はその洋服と背景にしか置かれていなかった。女の人も馬もまっ白だった。
 色のついた絵がつづいたあとには、線描きの絵が何枚かきて、それから文字だけが並ぶページになった。詩というものだと母さんは教えてくれた。
「虎」と母さんが声を出した。
 
  西斑牙の王様よ 
  あなたの袍を そして片手に 
  お把りあそばせ 苞刀を

 なんのことか分からなくてぼくは笑った。
 母さんは面白がって先をつづけた。

  夕ぐれの王宮 
  うっとりするほど美しい
  黒いいやらしさ 
  これがわたしの気持の全部

 頁をめくり「馬」と言い、―傷ついて死んでいく馬を見にこよう―というのを次に読んだ。それから「鎮静剤」という詩も読んだ。
 女という言葉を、母さんは何回も何回もくり返した。 

  退屈な女より
  もっと哀れなのは
  さびしい女です

  さびしい女より
  もっと哀れなのは
  不幸な女です

  不幸な女より
  もっと哀れなのは
  病気の女です

  病気の女より
  もっと哀れなのは
  棄てられた女です

  棄てられた女より
  もっと哀れなのは
  よるべない女です

  よるべない女より
  もっと哀れなのは
  追はれた女です

  追はれた女より
  もっと哀れなのは
  死んだ女です
 
  死んだ女より
  もっと哀れなのは
  忘られた女です
   *「マリイ・ロオランサン詩畫集」
         編譯者 堀口大學

 ぼくは顔をあげて母さんを見た。母さんの顔にはうっすらと微笑みが浮かんでいた。
 K大の学生がくれたのだということも、母さんは話してくれた。
「これはね、マリイ・ロオランサン」
 絵と詩を書いた人がマリイ・ロオランサンだと、母さんは言ったのだと思う。だけどぼくはそれを、母さんを表す音として聞いた。ぼくの横でゆったりと微笑む母さん。そういう母さんが、マリイ・ロオランサンという、鈴のような音を鳴らしているのだと思った。

 車内放送が、ぼくらの降りる駅が次に来ることを告げると、母さんは床にしゃがんで風呂敷包みの端を首にくくりつけた。
 駅が窓からすべり込んできて鉄のすれる音が響いて電車が止まった。扉が開いてぼくは先にプラットホームにおりた。でもうしろに続くはずの母さんの気配がなかった。振り返ると、電車のなかで、小さく丸まった母さんが、床にしゃがんだままあごを前に突き出してもがいていた。
 車内にかけ戻ろうとするぼくの体のなかを、小便が出口を求めて駆けめぐった。
 隣の席の女の人に助け起こされて、母さんは扉が閉まる寸前にぼくの前に立った。母さんは何も言わなかった。
 ぼくらは駅を出るとドブ川に沿って歩いた。ところどころ石がむき出しになったでこぼこの道。川との境を区切る錆びた鉄条網に、茶色い犬の毛がからまっていた。銀色の太陽が、尖った日差しを、ドブ川のなかから反射させてくる。
 川沿いの道から路地に入り、今度はこげた油の匂いと金属を削るモーターのうなり音に囲まれて歩き続けた。その間ぼくはずっと、母さんを助けに行かなかった自分のことを考え、ぶつけどころのない苛立ちを回転させていた。
 ぼくは母さんのところへとんで行きたかった。でも、はいつくばってもがく母さんを見ると動けなくなった。
 もし1歩でも足を踏み出したら、やどかりのような母さんが、本当にやどかりのように臭く醜いものになってしまい、それはつまり、ぼくにとっては母さんを失うことになる。ぼくは確かあのとき、そんなふうに考えたのだと思う。
 だけど母さんにはそれがわからない。母さんの目には、だまって立つぼくの姿が、知らんふりをしているようにしか映らなかったはずで、どれほど激しく小便の渦が膀胱を打ち鳴らしていたかも、想像できないにちがいなかった。

      (三)

 曲がりくねった道を深く入っていくときも母さんは迷わなかった。2階建ての少し傾いた家の前で立ち止まった。ヨロイのように板を張り重ねた壁には、黒いペンキが塗られている。
 正面の入口は素通りして、母さんは家の横にまわった。猫の死骸なんかが捨ててありそうな細い路地。その路地のなかで母さんは横歩きの蟹になった。
 路地を抜け、曇りガラスをはめた戸の前に立つと、母さんは木の桟に両手をかけ、少し持ち上げるようにしてそれを開けた。軋む音がして台所が見え、味噌の匂いが漂ってきた。母さんはたたきに立つと奥に声をかけた。
 暗がりに目が慣れると、積み重ねた箱や茶箪笥が目に入った。家は静かなままだった。でも母さんはもう一度声をかけようとはしなかった。
 やっと、こきざみに廊下の鳴る音が聞こえてきた。でもたけの短い暖簾の向こうに、着物を着た女の人の姿が浮かび上がるのに、それからまたしばらく時間がかかった。
 着物が赤っぽかったせいか、女の人は、丸筒形の郵便ポストのように見えた。着物のなかで、足はせかせかと動いているのかもしれないが、肥った体はなかなかこちらに運ばれてこなかった。母さんは女の人が前に立つまでのあいだ、風呂敷包みを背負ったまま何度も何度も頭をさげ、申しわけありませんとか、お暑うございますだとか言っていた。
 女の人の顔は、まぶたや頬が鼻と同じ高さまでふくれ上がっていて、破裂寸前のゴムマリみたいだった。かすれた声でしきりになにかを言っている。声がとぎれるたびに、大きく息を吸い込む苦しそうな音が聞こえた。重い荷物を背負ってくるのは大変だったろうと言っているらしかった。
「あの人に似てワンパクでこまります」
 母さんはそう言い、女の人はしきりにうなづいていた。うなづくと首のまわりの肉があふれだし、あごはそのなかに深くめりこんだ。
 女の人にうながされて台所に上がり、ぼくは母さんにつづいて暖簾をくぐった。玉電球のかすかな明かりの下に廊下が続いていた。女の人が立ち止まって母さんに何か言うと、母さんはぼくを振り返り、ここで待つようにと、左側の障子の部屋を指差した。
 部屋のなかには仏様の匂いがこもり、ほとんど聞きとれないくらいの音でラジオがなっていた。ラジオのランプの、橙色の小さな光に、ぼくの目は吸い寄せられた。見つめていると目の中がまっ暗になり、まっ暗になった中心に向かって光はぐんぐん遠ざかっていく。
 腕を重ねてぼくはお膳の上にうつぶせになった。頭の重みで目の玉が押され、まぶたの裏側に血の色が映った。血はまぶしいくらい輝いていた。暗く深いところから溶岩のようにせり上がり、目のなかいっぱいに赤い光を満たすと、今度はしだいに、端のほうから縮まりだしてウニの形になった。赤には金色が混ざり、ウニは瞳の形に変わった。瞳はすぐに形が崩れ、潮の流れのようなものになった。糸屑のような光が上から下へ目のなかを横ぎる。実際にはないものを見ているのだと思うと、頭がぼーっとしていい気持ちになった。
「もう4年生だろ」
 暗闇がぼくのことを話していた。苦しそうな声だった。ぼくは目を覚まし、自分がどこにいるか思い出した。頬がぬるぬるしていた。
「中学さえ出せばね。もうすぐだよテルちゃん」
 顔を上げると母さんの後姿が見え、その前に女の人が立っていた。白いハンカチが顔からおろされた。母さんの頭は畳のほうを向いて揺れていた。

      (四)

 家を出ると日は屋根の高さにまで傾いていて、道には半分以上、家並の形の影ができていた。母さんはその影を選んで歩いた。
 風呂敷包みは背中から消え、逆立ちしたテルテル坊主になって左手にぶら下げられている。なにか丸い物をもらってきたのだ。たぶん夏みかん。
 土手ぞいの道に出ると日影がなくなり、煮えた油のような日差しが再び顔や腕に降り注いだ。母さんが振り返って「お腹がへっただろう」と言った。ぼくは空っぽになっていた腹を思い出し、苛々して返事ができなかった。
 植木を積んだオート三輪がぼくらを追いこしていった。その後を歩くと、目や耳にほこりがふり積もり、口に砂が何粒も残った。
 土ぼこりの壁が沈むと正面に駅が見えたが、母さんは駅には行かず、別の方角に歩き始めた。
 赤い字で中華そばと書かれた汚いのれんをくぐった。店のなかにはテーブルが五つばらばらに置かれていて、母さんは壁際の席を選んで腰をおろした。
 今日、ぼくと母さんが正面から顔を合わせたのは、この時が初めてだった。母さんの目に笑いのような光がかすめたのも初めてだった。母さんはその目でぼくを見、白いハンカチをさし出した。ぼくはそれを受けとって顔をふいた。母さんはぼくが返したハンカチの端を口にあててしめらせると、テーブルごしにのびあがってぼくの鼻のわきをふいた。
 気がつくとぼくらの横に水を持った男の人が立っていた。福助の置物の裏から出てきたのだと思う。ぼくは目で見るよりも先に、レバーの匂いでその人を感じた。
 何にするかと母さんに訊かれ、ぼくはラーメンと答えた。チャーシューメンにしたらどうかと母さんは言い、オレンジジュースもたのんでくれた。
 注文したものを待つ間、ぼくも母さんも話をしなかった。母さんはハンカチの角と角を合わせてはたたみ、それを三角にしたり長四角にしたりしていた。ぼくは、油に汚れた表面から少しずつ皮膚がはがれていくくすぐったさが面白くて、テーブルに強く腕を押しつけては持ち上げることを繰り返していた。
 ぼくのと母さんのと、丼をふたつもって男の人がもどってきた。ジュースのビンはコップをかぶせてわきの下にはさんでいた。
 チャーシューメンはパサパサしておいしくなかった。コップにはレバーの匂いがうつっているような気がした。
 母さんの丼を見ると、茶色いつゆのなかに、白く濁ったものがいくつも浮かんでいて、食べ物には見えなかった。でも母さんはそれをすくって口に運んでいた。手に持っているのは瀬戸物でできたしゃもじだった。しゃもじはぶ厚くて、大きく口を開けてもまだ食べにくそうだった。つゆが一滴、母さんのあごをつたって流れた。
 ぼくはそばを食べながら、ハンカチでぬぐわれるまでのわずかな間、そのつゆの動きを目で追った。母さんの顔が汚されたと思った。
 その瞬間だった。ひとつの言葉がひらめいた。あとを追って、頭からかごをかぶせられた人たちの列が映し出された。時代劇の一場面だった。
 その言葉をあてはめて見ると、母さんのことがよく分かる気がした。使いにくそうなしゃもじも、食べ物に見えないものを食べていることにも、みんな説明がつくように思えた。

      (五)

 いつのまにか日は沈んでいた。色ガラスを重ね合わせたような空が最後の光をこぼしている。煙突の立ち並ぶ風景が左へ左へと巻き取られ、すれちがう電車が、壊れたテレビの画像のようにぼくの目をさえぎった。
 母さんは窓の奥、ななめ右にいた。目をあけているのだろうか。座席に腰をおろし、背中はまっすぐ伸びているけれど、首は付け根からがくんと折れていた。髪が垂れ、顔には影のお面がかぶせられている。ブラウスはしなびた朝顔のようになり肩の骨が浮き出ていた。
 なんとか谷、という駅についた。あと五駅くらいはこの電車に乗っていくのだったと思う。
 電車は徐々に速度を落とし、まばらな人影をやりすごして、紙袋をぶらさげた男の前で止まった。ガラスごしに濁った目がぼくをにらんでいる。
 男は足を引きずるようにして入ってきた。ちぎれかけた胸のボタンが、垂れ下がった糸の先で揺れていた。男が横を通りすぎると、酒と汗の混ざった匂いが鼻をかすめた。
 この車輌の乗客は、ぼくらの他には、新聞を読んでいる背広の人だけで、男は最初、その人の向かいの席にどさりと腰をおろした。
 そのはずみで後頭部が窓ガラスに打ち付けられ、嫌な音が車内に響いた。今にもガラスが割れそうなくらい強い音が、そのあとたて続けに何回もした。男は、ぼくがもうやめてくれと心のなかで叫んでも、頭を叩きつけるのをやめなかった。
 やがて男はふらふらと立ち上がり車内を歩き出した。後ろを通り母さんの方に向かう影を、ぼくは窓ガラスのなかに追った。男が母さんの前で立ち止まるのが見えた。
 ぼくは振り返った。席はほとんど空いているのに、男はわざわざそこを選んで座った。うつむいた母さんの顔を、のぞき込むようにしてじろじろ見ている。電車が揺れるたびに、足を組んだ男の泥だらけの靴が、母さんのスカートのすそをよごしていった。

 いつのまにか窓ガラスにぼくの顔がくっきりと映っている。
 たとえ心のなかのことではあっても、母さんに「囚人」という言葉を重ねたことを、ぼくは後悔していた。
 母さんはただ大きな荷物を背負っていただけで、それは洗濯で汗を流している母さんと変わらない。話をしなかったのは、ぼくが話しかけなかったからで、ぼくが先に電車を降りたときも、遅れたのがぼくでなくてよかったと思ったはずだ。チャーシューがまずかったのも、舌に土埃がついていたからで、母さんのせいじゃない。
 今日一日、変だったのは、母さんじゃなくてぼくだったんだ。
 窓ガラスの奥では母さんが顔を上げて、ぼくの後姿を見ていた。泥靴の男は母さんの肩にもたれかかるようにして眠っていた。
 母さんの顔は白く光って夜のなかに浮かんでいた。馬の首を抱くあの女の人がそこに映し出されているように見えた。

05/02/2014


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